人生に起こる様々な現象はなぜ起こるのか?という根本的なことを理解する。
人生の仕組み<Mechanics of Life>について1週間学んだ。
欲求 DESIRE
あらゆる生命の基盤になっているのがDESIRE “欲求” 。日本語で欲求っていうとなんかいやなイメージがありますが、つまりは何かを欲することです。
望むこと or 意志と言ってもいいかもしれない。
サイエンスの話にも繋がっていて、原子がぐるぐる動き続けていること、それも動き続ける意志。
まずその意識の繰り返し、それが宇宙っていうと壮大すぎるけど、原子がぐるぐるぐるぐるバイブレーションして回転し続けるのと同じ、人も人の欲求<意志>も伝に動いて広がってる。
考えたこともなかったけど、考えれば当たり前で…
人間だけ宇宙の中で特別な存在だと、知らず知らずに思い込んでいたけど実際はあくまでも宇宙の一部。
もっと小さいスケールでいえば地球の一部。連動していて当然なんですよね…
欲する時、芽生える厄介者
「何かを欲する」と人はそこに意味や感情をくっつけて一緒くたにして捉えがち。
でもこれは本来は別々のものなんです。
例えば「これこれをしたい!」と思った時、これこれができないと自分はダメだ、とか、これこれをする事が素晴らしい事なんだ、っていう具合に意味とか正義とかとにかく色々な価値観をくっつけて、その価値観には感情もくっついていて、高揚感とか焦りとか、苛立ちとか、ワクワクとか。
でも欲することは=意味や感情ではない!
でもそんなこと初めて聞いたし、知った。
意味や感情というのはロジック(理論)から生まれる。理論は過去の経験則や未来の予測をする人間の脳に与えられた素晴らしい機能だけれど、これを使いこなせていないのが僕たち現代人。自分の脳の取説を読んでいないので脳の使い方をわかっていないのです。
だからこそこのコースを受けたんですが…
人間の脳の本質的機能は何か?
脳は広がるために(Expansion)、衝動性(Compulsiveness)を使う。
つまり人間の脳は衝動的に何かをしたがるのです。したがる理由は広がるためです。
広がるって?
それは知識を広げる(深める)、縄張りを広げる、そしてそれ以上に、物事の本質に迫りたいという欲求です。本当のことが知りたいんです、脳は。
本当のことっていうのは「正しいこと」ではなくて「真理」なんですがまぁそれはもっと後に書きます。
脳は欲します、常に自分の限界の外にひろがろう広がろうとする人間がまさにそう。
広がろうとするときに衝動性が作動してしまいがち。
つまり2つのことExpansionとCompulsivenessが歯車のように回ってしまうのです。
これをうまく手綱を引いてあげないといけないのですが、誰もそんなことは教わってきていません!
厄介なのはこの衝動性が発動することを僕らがなかなかコントロールできない時。
なぜ衝動性がいけないの?
いけなくはないんですが、衝動性っていうのはあらゆる動物に与えられた生存の機能。
生き延びるために自分と他者の間に境界線を引いて識別して、っていうことをやりたがる。
学者とか頭のいい人がやりたがる「知識・理論武装」がそれ。最近流行っている「論破する」なんてのはこの手の類でこれが衝動性。
これが結局人と人の対立の原因でもあるし、実は欲求・意志が広がろう広がろうとすることと真逆のことをやっちゃう。広がろうとする欲求はあらゆる未知を体験したいと思う、一つになりたいと思う融合して溶け合っていく作用なんですけど、衝動性は融合の逆、識別、なんです。
知識に固執してきた
Expansionを誤った捉え方をしているのが人間でして、広げるや深めるを「知識」に絞っているんです。知識こそが人間が動物と違う人間の最大の武器だと思い込んでいるのです。
だから学校教育では今まで知識=記憶力、や応用力=過去のデータから算出される未来予想図ができる人間を評価しました。それが生み出した時代や産業もあったのですが、今それが終わろうとしています。
インターネット, AI, IOT。僕もネット番組を散々制作し、今はディスカバリーチャンネルでAIやIOTの番組を演出しているので肌で分かるのですが、記憶力や応用力はこれからの時代には機械がやてくれます。
人間は昔、体のおおきい力の強いものが強者・勝者になれた。時代は変わり、やがて戦略を立てられる頭脳派が世界を支配する強者になった。それが現代まで続いています。要は誰が「凄い・えらい・強い」かです。
そういえば余談ですが、以前NHKでやっていたサイエンスの番組ではそれが原因で人間の精子が薄くなり、生命力の強かった人間ではなく知性のある人間が強者になったために遺伝子レベルで人間が貧弱になってきているというものです。サイエンスで証明されつつある面白い現実です。現代の不妊の原因としてかなり問題視され始めている…
されこれからの時代、知識で強者になるという時代ではなくなります。知識はネットを調べればいくらでも出てきます。人間はExpansionという脳の特性を完全に誤解して知識を広げることだけを重視してきました。だからこそ知識がある人を尊敬し、ない人を馬鹿にするのです。それでは戦争も争いもなくなりません。
僕たちが幸せに暮らすこともできないわけです。そんな知識はいらない。
そういう風にようやく思えた今日この頃。
あなたはナイフを持つか?ナイフになるか?
コースの中でサドグル先生はこうおっしゃっていました。意訳ですけど。
例えばあなたが手にナイフを持っていたとします。あなたのナイフは知識です。でもそのナイフをどう使うかでナイフの価値は変わります。誰がそのナイフを使うんでしょうか?誰=知識ではないんです。
いつのまにか知識に人格が与えられて知識のある人が素晴らしい、となってしまいましたが、知識は人そのものではないんです。
つまり現代人はナイフが知識、知識が武器だと思っている。と同時にナイフそのものが自分自身であるかのように錯覚をしている。その理由は知識、経験値とそこから算出される未来予測能力が絶対であると思い込んでいるからなのですが、先ほどのネットの話ではないのですが、人間の過去の知識と経験なんぞ、そもそもたかが知れているし、それにすがることは不毛である。
知識に固執すると感情的になる
さらに、すがればすがりつくほど、そこには感情というもう一つ厄介なものがくっついてまるで自分の信念や価値観になってしまう。そうなるとそれ以外のものを受け入れようとしなくなるのです。
まず人間の脳の中に溜まっていく知識は自分自身ではなく、別人格として捉える必要があります。
脳は脳でしかなく、知識は知識でしかない。
それをごっちゃにしないためのトレーニングとしてヨーガや瞑想がかなり良い。
実際に始めたら信じられないほど自分が変わった・・・
日本だと座禅とか祈りがそれに近いものですね。ここではあまり深く描かないですが、これは宗教とかスピリチュアル系の話ではないくかなりサイエンスです。僕自身宗教やスピリチュアル系にはまっている人ではないのです。
もし僕がナイフという知識を切り離して物事の真理を理解できたならナイフの使い方を誤ることはない。
たいていの人はナイフを誤って使う。なぜならナイフ自身が自分の脳、つまり自分自身であると勘違いし自分を攻撃するんです。
何か大変なこと、辛いことがあると落ち込んで自虐的になるのはそのためです。脳から発せられる衝動的 Compulsivenessな信号を間に受けて落ち込むのです。脳からの信号を真に受けてはいけないんです。
脳はアンプ
人は悲しみSadness 痛みPain 苦しみSufferingを一緒くたに考えてしまうんですが、3つは全く別のものです。僕もそれに気がつかなかった!
悲しみには慈愛や意識の深さにも現れます。痛みは身体的苦痛を脳が信号として送る、生存には必要な動物的機能。苦しみは脳が増幅させた妄想です。苦しみは人の脳内で生成されてその人自身を苦しめる。
仕組みは簡単、苦しみは自分があるひどい体験をした(と思い込むこと)から始まります。
思い込むとは、衝動的に過去の知識や、そこから算出される未来予想を描いて何倍にも増幅させたイメージです。意味づけや価値観を決めつけて、優劣や区別をつけて初めて自分が今ひどい状態なんだと思い込み苦しむのです。
これについてはアドラーの心理学にも非常に近い。トラウマは存在しない、とするアドラー的な脳の捉え方です。トラウマというのは脳の想像の産物であり実在はしない、というのです。
簡単な例でいうと、同じ旅行先のホテルでの滞在経験を話す2人組がいたとします。Aさんは受付の接客態度が最悪でいやな思いをしたことを思い出します。Bさんは受付の人が疲れてたんじゃないか?程度にしか思っていません。こういった経験はありませんか?解釈が全然違うのでその時経験した感情が全然違うんです。
アドラーの心理学の話をするつもりはありませんでしたが、重要なのは、トラウマは正確には(医学的に)傷そのものではない、とする意見です。トラウマイコール傷にするということは、トラウマを抱えた被害者はその後永久に回復することが望めない、という見解になる。しかし経験を「本人がどう解釈するか?」でそれが変わるということです。簡単に書いているように聞こえていますが、もちろんそれは簡単なことではないですし、被害者からすれば想像を絶する苦痛であるわけで、ここで書いているように簡単ではないのですが・・・
別の例で言うと教育です。人は教育によって変わるのか?犯罪者が厚生できるのか?です。これについては様々な研究者が奮闘しておりますが、現状のサイエンスでは、難しいが可能だ、ということになっています。それが教育制度をある程度支えていると言ってもいいかもしれません。脳の手綱をしっかりと人間が引く事ができれば、同じ体験でも全く違う解釈が出来る、という事がわかっているからです。
脳に支配されている人、脳を真に受けて脳イコール自分自身だ、と思い込んでいる人は、永久に脳の言いなりになります。
脳は外的要因に反応していくので永久にあなたの人生は外的要因に左右されたママです。
人間は10年前の出来事で腹を立てたり悲しんだりすることができます。
それはまさに過去の記憶という知識を使って、想像し(妄想し)、悲しさを増幅させているからです。
同じように5年後の自分を想像して(過去のデータから算出した未来)悩んだり、不安になったりします。
この脳の特性を理解し、しっかり手綱を握って操縦してやるということです。
原子の話をしましたが原子も常に動いています。エネルギーの塊です。つまり人間はエネルギーの塊です。
そのエネルギーをなぜ人間が持っているのか?答えは見えています。そのエネルギーを使うためです。
エネルギーを使うためのノウハウはいりません。ノウハウはすべて体に備わっています。それが自然であり、人間はその自然そのもの、その一部である、ということを忘れかけている。
至福と幸せの違い
ヴェーダの教えには面白いことがあります。
幸せはHappyと言ってもいいかもしれません。何か嬉しいこと、外的欲求が満たされると(過去の経験とそこから来る未来予想能力で)Happyになります。過去の経験と未来予想から人間は好き嫌いを判別します。その判別をした時に自分に合うものだけがHAPPYに感じるのです。
これでは世の中のほとんどの出来事や人はあなたの価値観にあっていないわけですから、HAPPYな瞬間はほとんどやってこない。あったとしても瞬間的な快楽で終わってしまいます。それは決して悪いことではなく、それはそれです。
至福とはそれとは違い、内から溢れるものです。そういう生き方を人間は欲していますが、知識が邪魔をしている状態が起こっています。至福は外的要因とは一切関係なく内側に生まれます。それができたら凄い!
知識は過去の経験と未来予想能力を駆使して個人の好き嫌いを作っていきます。これをDevided (物事を区別して考える)という現象を引き起こし、何でもかんでも好き嫌いや合う合わないで判断します。とても短絡的で自分が痛い目にあう確率が圧倒的に高いんです。なぜなら世の中は多様な要素で成り立っているからです。
DIVIDED とONENESS
至福とは常に内側から溢れるもの。これって誰しもが偶然に経験しています。
何か内側からわけもわからず溢れる温かい思い。感謝の思いなど。その時のあなたはすごく至福を感じているはず。僕もそういう経験があります。
その時って自分と他者はDivided区別していません。まるで自分ごとのように置き換えて感じているはず。
つまりDividedの逆はOneness・一つになるのです。
人は区別をやめると一つになろうとします。一つになる、自分ごとになる。
人間はエネルギーそのものです。エネルギーを使うためです。エネルギーを Divided(区別・差別) に使うのをやめた時が自分の新しい可能性です。
いくらシャープなナイフを研いで手に持って見ても、そのナイフ(知識)には限界があります。ナイフを持っている当人を深め、当人のエネルギーそのものを活用する必要がある!
初日ですでにかなりお腹いっぱい!
お茶でも飲んでゆっくりリラックス休憩してください。
続く